シルクロードの旅―4

8月11日(土)ユルト・キャンプ


AM6:00、起床。ユルトで暖かく寝られて、気持ちの良い朝を迎えた。3日ぶりに顔を洗い、近所を散策した後、ポメラ。


暖かく寝られたユルト・キャンプ


AM8:00、朝食、お粥に似た物、サラダと目玉焼き、お茶。ユルトに準備されたテーブルに、同じ敷地にある別棟から、次々と料理が運ばれる。待たされることもなく、気持ちの良い、振る舞いである。


食事中に、今日の村祭りの入場料として、昼食代込みで、800Comが徴収された。村としては年に一度のイベントであり、総力を挙げている雰囲気である。日本語教師のスルガさんも、キルギス語と英語を駆使して、縦横の働きである。


此処のユルト・キャンプは、彼女の4代前のお爺さんが、1軒のユルトから始めた物である。今はそれが10軒以上になっており、世界中の旅行者が立ち寄り、ユルトと村の雰囲気を味わっていく。

ユルト・キャンプの村(イシク・クル湖付近)

建物の外壁に「YURT CAMP、ユルト・キャンプ」と書かれ、その下に「JAICHY、ジャイチー」と書かれている。私は、「JAICHYは、JICAと関係があるのか」とスルガさんに聞くと「JAICHYは、4代前のお爺さんの名前で、JICAとは関係ありません」と言うことであった。よく似た名前がある物だ。

お爺さんの名前(ユルト・キャンプ)

同じテーブルで食べていた、医者の卵であるアビーに家族のことを聞いてみた。「妹が一人おり、アラスカで障害者の教育に従事している。彼女は、小さな田舎町が好きなんです。父は60歳、母は56歳で、共に退職して余生を楽しんでいます」と言うことだ。リタイア年齢が若いと思う。


AM10:30、広場でフェスティバルが始まった。英語とキルギス語の二人の司会で進行していく。

民族衣装の少女(1)―――キルギス

村の子供―――キルギス


民族衣装の少女(2)―――キルギス


祭りの式次第は、次のようであった。

1、出演者の入場行進


1-2,出演者の整列


2、若い女性達による伝統の踊り


3、伝統の楽器、コムズの演奏


4、地元の青年と観光客有志による綱引き


5、観光客女性有志による、牛と山羊の乳搾り競争

6、再び若い女性達による伝統の踊り



7、観光客男性有志が2組に分かれての、ウォッカの飲み干しリレー競争

8、ユルトの組み立て競争



PM1:00、午前の部を終わり、昼食タイム。ピラフ、パン、サラダ、羊肉、すいか、メロン、アプリコット等。観光客は銘々が皿を持ち、食べたい物の所に行って、盛りつけて貰う。私は、すいか、メロン、アプリコット等の果物を堪能した。

民族衣装の少女(3)―――キルギス

民族衣装の少女(4)―――キルギス


PM2:00、会場を大きな広場に移し、午後の部が始まった。式次第は次の通りであった。

1、競馬



2、騎馬戦

3、男性騎手と女性騎手による戦い「男性騎手が女性騎手を抱きしめるか、女性騎手が鞭で男性騎手を追い払うか」


4、障害物競走


5、鷹狩のデモンストレーション


PM3:30、祭りが終了し、帰りの支度。日本語教師のスルガさんに、世話になったお礼を言い、彼女のお母さんと記念写真を撮る。

日本語教師のスルガさんと(キルギス)


PM4:45、トラック・バスの故障により、乗り合いバスをチャーターして、ビシュケクのアップル・ホステルへ。一人100Comの追加料金。


PM6:30、トイレ休憩。ケーキパン30Com

PM8:30、アップル・ホステル着。数日前もここで3連泊した馴染みのホステルだ。トラック・バスの故障が直るまで、ここで更に3連泊の予定である。まず洗濯を依頼する。200Com


4日ぶりにシャワーを浴びて部屋に戻ると、日本人青年が居た。「休暇で旅行中です。今回は8日間の日程です。外資系の会社で働いているので、休みは取りやすいです」等と話してくれた。


PM10:00、ここのホステルでは、Wi-Fiが使えるので、家族に写真を数枚送る。

PM11:30、就寝。


8月12日(日)ビシュケク


AM6:00、起床。数人がオプショナルの1泊旅行に出かけた。私も行きたい気持ちはあったが、片道6時間掛かるし、3000mの高地だし、余り無理をしたくない気持ちが勝って、参加しなかった。その分ホステルでユックリ出来る。

AM7:00、朝食。ジャムを付けたパンケーキとコーヒー。その後、ポメラ。


AM12:00、昼食へ。少し美味しい物を食べたいと思い、受付の女性にレストランを教えて貰った。徒歩で20分足らずの所にあると、地図にマークをして貰って出発。結果は、そのレストランにたどり着けず、通りがかりのファスト・フードで済ますことに。120Com


ここで、野菜と肉を挟んだ大きなパン(日本のマックの3倍くらいある)にかぶりついていると、二人の少年が私のテーブルの前に座った。二人は兄弟で、兄が20歳、弟が18歳。共にウズベキスタン人であるが、兄はビシュケクの大学で、機械工学を勉強中。


弟はその兄を頼って、観光に来ている。私が英語で話しかけると、兄の方は殆ど反応がない。弟の方がそこそこの反応をしてくれる。弟は、ウズベキスタンのカレッジで英語を勉強中。2年後には、英語の勉強にアメリカに留学するつもりですと言う。弟の方が反応が良い理由が分かった。


PM1:45、帰り道で、見かけた床屋を覗いてみると、印象の悪くない女性が、男性の整髪をしていた。私が頭に手をやって、整髪をしてもらえるかと聞くと「どうぞ、中に入って」と言うジェスチュアである。言葉は交わさなくとも、これくらいは通じるものだ。


前の男性が終了して私が鏡の前に座った。女性は、スマホで私の髪型を表示し、「これでいいですか」と言う表情だ。私は「それで結構です」の表情を示すと、整髪が始まった。その方法は、串とバリカンを巧みに使って、刈り上げていく。


始まってから終了まで15分間であった。日本での千円カットに似ている。こちらの料金は200Com300円弱である。私の整髪が進んでいる間に、馴染み客らしい男達が4人も入って来た。それなりに固定客も居るようだ。おかげで私の頭はスッキリした。


PM2:30、スーパーへ買い出しに。何か美味しい物を、と思って行くが、これと言って見あたらない。苦し紛れにヨーグルト1個、30Comと、メロン、51Comを購入。メロンはツアーの仲間と食べようと思う。


ホステルに戻り、仲間に呼びかけて談話室でメロンを食べていると、受付の女性が来て、「誰かマッサージを受けたい人は居ませんか?マッサージ師がこちらに来てくれます。60分間で1500Comです」と言う。私は「待っていました」とばかりに手を挙げて、希望した。


PM4:10、マッサージ開始。少し強めだが我慢できないほどではない。久しぶりのマッサージを受けて、体がポッポしてきた。少々太めのおばさんマッサージ師は、休むことなく1時間みっちり揉んでくれた。


PM6:00、シャワー・タイム。

PM7:00、ポメラ・タイム。

PM9:30、就寝。


8月13日(月)ビシュケク


AM6:00、起床。

AM7:00、朝食。ジャムパン、ソーセージ、目玉焼き、紅茶。代わり映えはしない。

AM8:00、ポメラ。


AM10:00シティセンター方面へ散策に出かける。貴重品と水を持っただけで、重荷に感ずる様になった。マナス王像がコンサートホール前と、そこと余り離れていないアラ・トー広場前にあり、キルギスにおいては、如何にマナス王の存在が大きいかが感じられる。


シティセンター方面―――ビシュケク


マナス王(1)―――ビシュケク


マナス王(2)―――ビシュケク


インド人グループに説明をしていたガイドの話の中に、キルギスタンがソ連に併合される時、中国へ逃げた人たちが大勢居た。それが今の新彊ウィグル自治区である。ソ連が崩壊して、その束縛から逃れたと思ったら、今度は中国からの弾圧だ。そう考えると、民族、宗教の問題は、普遍的であり、それを解決することは、簡単ではない。


AM12:00、お腹が空いてきたので、レストランに立ち寄る。メニューを見せられても皆目分からない。何かスープを頼みたいのだが、それも伝えられない。苦し紛れに浮かんだ言葉が、「ボルシチ」であった。私が「ボルシチ」と言うと「ボルシ」と返してくれたので、それを注文することになった。


先にパンと甘い飲み物が持ってこられた。暫くすると、ボルシチが運ばれてきた。ジャガイモ、羊肉、赤大根、人参等が煮込まれた赤紫色のスープである。少し塩分が強いが、我慢できないほどではない。100%の満足ではないが、70%は良いかなと言う気分で啜っている。


疲れてはいたが、もう少し歩く事にした。帰り道の露天で、果物が渦高く積まれていたので、気になっていた、桃、スモモ、リンゴを買った。


PM2:00、ホステルに戻って、試食した結果は、何れも、「ノー・サンキュー」のレベル。日本の果物が、如何に品種改良されて、美味しくなっているかを痛感した。


PM3:00、ポメラ・タイム。

PM5:00、ホステルの中庭で数人と懇談。そこに居た、オランダから来ている、ディディエルナが「私たちは、今日でツアーをリタイアして、明日の早朝に帰国します。旅程が過酷で、楽しめないからです」と言う。突然の話で驚いたが、そう言われてみると、この二人は何処と無く繊細で、体力的にもキツかったのかなと、思われる節はあった。


後から聞いた話では、フロリダから来ていたキムも同様に、リタイアするそうだ。私にとっても、楽な旅程ではないが、ある程度は予想されたことであり、想定外ではない。ただ、想定内でも厳しい方のギリギリの線かなと思う。


昨日早朝、ソン・コル湖に出かけたスザンナ夫妻から、旅の報告があった。「お天気が悪く、途中から大雨、雹に見舞われてしまった。道路はぬかるみ、3000mの崖の上で、車がスリップするような状態であった。何とか、予約のユルトに到着したが、寒くて震えていました。


しかし、火を焚いて貰うとユルトの中は暖まり、快適になってきました。次第にお天気も回復し、心尽くしの食事でもてなされ、最後は楽しい旅行になりました」という話であった。前半の話を聞いていると、私は行かなくて良かったかなと思った。


シンガポールから二人の若い女性が来ていた。その内の一人が、日本人に見えたので、日本語で声をかけた。すると、怪訝な顔を去れ「私はシンガポール人です。一緒に来ている私の友人は、日本語ができます」と言う。


その友人が後から現れ、話してみると、上手な日本語であった。顔も日本人に似ているし、シンガポール人だと言われなければ、日本人で通ってしまう様な人であった。「私たちは、2週間の休暇を取って、キルギスタンの旅行にきました」と言う。


キルギスタンは中央アジアの中でも、ビザが不要で、旅行者が訪問しやすい国になっている。来てみると、キルギスタンは、国土の94%(日本は75%)が山岳地帯であると言う。後発ながら、観光資源としての山と湖は豊富である。上手に開発していけば、アジアのスイスとして、人気が出てくる可能性を秘めていると思う。


PM6:00、シャワーを浴びた後、談話室へ行ってみると、小学校低学年と思われる兄弟二人が、日本語で話していた。「何処から来たの?」と聞くと、「沖縄です」と言う。話はそれだけで、会話は弾まなかったが、後で聞いた話では、母親と3人で来ており、母親の英語は流暢ですと言うことであった。こんな日本人も居るんだと驚いた次第。


ビシュケクに来て良く耳にし、目にする単語が「アラ・トー」と「マナス王」である。アラ・トーの意味を聞くと「アラ=多彩な」「トー=山」。つまり、周り中が多彩な山に囲まれている国を言い表した言葉なのか。


「マナス」は、これまでも何度か言及してきたが、キルギスを統一した初代国王の名であり、キルギス人の彼に対する敬愛は、殆ど絶対的なものを感じる。残念ながら、日本ではこのような人は思い浮かばない。聖徳太子、織田信長、武田信玄。何れも少し違う様な気がする。


PM8:00、明日が早い出発になるので、早く就寝。


8月14日(火)オシュ


AM4:45、起床。

AM5:30、朝食。パン、ソーセージ、コーヒー。

AM6:00、出発。当初の予定では、今日がタジキスタンへの移動日だが、完全に2日遅れだ。しかも、行くべき所へ行けていない。この後どうなるのか。とりあえずトラック・バスの故障が直らない限り、見通しは立たない。


今日の移動は、2台のミニバンに分乗し、ビシュケクからオシュまで行く。12時間の予定であるが、果たして結果は?


我々のバンには、ホステルのスタッフ「アイゴさん」が同乗している。多分このバスは彼女が手配し、行く先も同系列のアップル・ホステルだからであろう。


彼女と話して聞けたことは次の通り。

彼女は、ホステルのマネジャー、28歳。5年間のアメリカ留学と、1年間の中国留学を経験。先日、宿泊したユルトの「スルガさん」とは、最近、一緒に仕事をしましたので、良く知っています。それは、18人の日本人登山家が来訪したとき、私が受け入れ、日本語の通訳を彼女に依頼したからです。日本語の通訳は、収入が良いです。


言語について少々:

ロシア語はインド・ヨーロッパ語族のスラブ系、キルギスタン語はトルコ語と同じ、アルタイ語系のチュルク語、同じ中央アジアでも、タジキスタン語はインド・ヨーロッパ語族のペルシャ系とそれぞれ分類できる。従って、キルギスタン語は、ロシア語と同じキリル文字を使っているが、単語や、発音は全く別である。逆に、キルギスタン語とトルコ語は全く別の文字を使っているが、単語や発音は殆ど同じである。


だから、ツアー仲間でトルコ人のセブギは、キルギスタンの文字は読めないが、キルギスタン人と会話はできる。彼女はトルコ語で話し、お店の人はキルギスタン語で話しているが、互いに通じ合っているのだ。


同様に、彼女は中国の新疆ウィグル自治区でも、書かれているウィグル文字(アラビア文字)は読めないが、彼らの言っていることは、理解できていた。それはウィグル語がトルコ語と同じチュルク語系であるためであろう。各国の言語が今日の姿に落ち着くのに、それぞれの歴史を経てきていることが垣間見られて、面白いと思った。


AM8:00、トイレなしのトイレタイム。前の車は、男は右側の草むらで、女は左側の草むらでと指示があり、その通りに車から降りていった。ところが、後ろの車では、男女が逆の指示があったらしく、男の側に女が降りてきた。こうなったら、男も女もない!先に自分の場所を確保した方が勝ちである。


女達も、あっと言う間に用を済ませて、涼しい顔をしている。まことに頼もしい限りである。考えてみると、男の物は簡単に見えるが、女の物は隠さなくても簡単には見えない構造になっている。なのに、どこの国でも、男は見えても構わないし、女は見えては困るという振る舞いをするのは、どういう歴史・文化が有るのだろう?


車は峡谷を右に左に曲がりながら走っている。滅多に見られない光景にウットリしながら、その一方で、「山側から岩が落下してきたらひとたまりもないし、カーブでハンドルを切り損ねて、谷底に車が落ちたら確実にあの世行きだろう」等と不吉な想像が脳裏をかすめていく。


AM9:30、標高3400mの峠に差し掛かる。今日は幾つの峠を越えていくのだろう。ビシュケクからオシュの間には、キルギス・アラ・トーフェルガナ山脈が横たわっている。標高は比較にならないが、日本なら、東京と大阪の間に南アルプスや北アルプスが横たわっている、中央道を走り抜けるイメージだろうか。

ビシュケク〜オシュの山岳地帯@(キルギスタン)


ビシュケク〜オシュの山岳地帯A(キルギスタン)

ビシュケク〜オシュの山岳地帯B(キルギスタン)


AM12:00、峠の茶店でランチタイム。ここでは珍しく、マスを焼いてくれるというので、それと、羊の串焼きを所望した。440Com100店満点で80点ぐらいのお味でした。いつも小食の私が、珍しく二品も頼んだので、スザンナは驚いた様子だった。

ビシュケク〜オシュの山岳地帯C(キルギスタン)


PM3:00、トイレ休憩。トラック・バスが修理中のために、代わりのマイクロバスに分乗しているが、クーラーの効かない車の中は、とにかく暑い!座席の隣の窓は開かないし、天井の窓は壊れているので、ペットボトルを差し込んで、僅かにこじ開けている。サウナ風呂状態である。これで長時間我慢せざるを得ないのだから、過酷と言うしかない。アイスクリーム、25Com


PM5:30、トイレ休憩。予定では、そろそろ目的地に近付いても良いのだが、全くその気配はない。予定の所要時間には、トイレ休憩とか、ランチタイムの時間は含まれていないようだ。従って、それらを加えると、本日の所要時間は14時間を超えると考えなければならない。コーラ、50Com


PM9:00、オシュのアップル・ホステルに到着。所要時間は15時間でした。南米のボリビアで、気象状況が悪く、飛行機が飛ばなくなり、急遽小型のセダンに分乗して山越えをした時は、20時間掛かっているから、それに比べればまだましか。しかも、あの時は夕刻から徹夜の走行であったのだ。思い出す度に、事故に遭わずに良かったと思う。


PM10:00、シャワー・タイム。とにかくシャワーを浴びてスッキリしたい。館内には一個のシャワーしかなく、使用中。屋外のシャワーに駆け込んだが、こちらはお湯が出ない。もう裸になっているし、もう一度出直すだけの余裕はない。しかも、出直せばお湯が出るという保証もないし。


私が、冷たいシャワーを浴びて、不満げに出てくると、隣で、私と同じように、冷たいシャワーを浴びていたスザンナは、涼しい顔をして「フレッシュで良いシャワーでした」と言っている。温度感覚・体感温度がこれだけ異なると、議論のしようがない。


PM10:30、夕食。日本から持参のインスタントラーメン。

PM11:00、8人部屋のドームで就寝。若者は中庭でビールを飲みながらの歓談中である。


8月15日(水)オシュ


AM5:00、起床。

AM6:00、ポメラ。お腹の具合がしっくりしない。少し便が緩い。疲れか?正露丸を飲む。


AM9:00、今日は、オシュ町の象徴であり、世界遺産の聖地「スレイマン・トー聖山」の見学に行く。スレイマンはイスラム教の呼び名で、キリスト教では「ソロモン」と呼んでいる。私は今までに、この名前と2度出会っている。1度目は「ソロモン王の洞窟」として、2度目は、アラビア語を学んでいるときに「スレイマン王」として。はたしてオシュ町のスレイマン・トーは、これらと関係があるのだろうか?それが私の関心事である。


スレイマン・トーに行く途中で、朝食を取る。ジャガイモの入ったパイとお茶で30Com。私の体調は、スッキリしないが、元気なセブギとミシェルに同行する。スレイマン・トーの麓までは、歩いて30分ほどで行けた。が、そこからは結構きつい登り坂である。山の中腹で入山料(拝観料)を払う。150Com

スレイマン・トー(キルギス・オシュ)


頂上付近には大きな洞窟があって、この山が現在のイスラム教の聖地になるまでの歴史が分かるような物が展示されている。その昔、イスラム教の聖地になる前は、土俗の宗教、ゾロアスター教、シャーマニズム、仏教、キリスト教と種々の宗教の聖地として存在していた。それがイスラム教の聖地となった事までは、理解できたが、なぜそれが「スレイマン」と結びついたのだろうか。それは預言者のスレイマンが此処に逗留したとされる伝説に従って、18世紀に名付けられたそうだ。


             
頂上付近には大きな洞窟(スレイマン・トー聖山)


洞窟で祈るセブギ(スレイマン・トー聖山)


また少し行くと、崖の側に、人が二人も入ると一杯になる小さな洞窟があり、信者はその中に入ってお祈りをしている。ミシェルとセブギはその中に、頭と背中を丸めて座り込み、何やらを祈っていた。


そこを出て更に頂上を目指すと、もう一度料金を徴収された。20Com。そこには、滑り台のようになった岩があって、イスラム教の信者は、歓声を上げながら、その岩で次々と滑っている。此処で滑ると御利益があるらしい。

岩の上を滑るミシェル(スレイマン・トー聖山)


ミシェルは、キリスト教信者であるが、滑りたくなったのであろうか、試してみたら旨く滑れていた。しかし、ムスリムのセブギが挑戦したときは、体が下に降りていかなかった。太り過ぎていて滑り台にスッポリハマり、摩擦が強すぎたのであろう。


最頂上にはモスク風の建物があって、そこは、ムスリムしか入れないと言う。セブギはサンダルを脱いで中に入って行った。私たちは見晴らしのよい、スレイマン・トー聖山の頂上から、オシュの町を見下ろすことができた。

スレイマン・トー聖山の頂上から見るオシュの町

AM12:00、下山の途に。私たちが登ってきた広い登山道とは反対側にある、狭く急な登り口からも、家族連れや、年輩者同士が登って来ていた。コーラを1本。40Com。高い!

反対側の登り口で(スレイマン・トー聖山)


AM12:30、私は疲れたので、同行の二人と別れてホステルに帰ることにした。途中までは、順調に戻れたのだが、いつもの通り、最後の詰めが甘い。ホステルの近くまで来ている事は間違いないのだが。


近所の警察に駆け込んだが、「そんな名前のホステルは知らない。住所から言うとあの辺だが」と言う。言われた方に行ってみるが、見あたらない。近所のホテルへ行って聞くと、自信がなさそうに「この辺ですよ」と地図を書いてくれた。それを参考に近所を歩いたが、一向に見あたらない。


もう一軒のホテルで聞いても、正確には教えてくれなかった。とうとう苦し紛れに、民家から出てきたおばさんにも聞いてみた。おばさんは親切にも近所の人に聞いていたが、らちが開かないようであった。


とうとう、おばさんは「私に付いていらっしゃい」と言って、歩きだした。そこから50mほど歩いていくと、ツアー仲間のフーゴが、ホステルから出てきた所に出くわしたのである。「ホステルを見失ってしまったんだよ」と、フーゴに言うと笑っていた。


一緒に来てもらったおばさんに、お礼を言って分かれた。私は、ホステルから300m以内の所を2時間も探し回っていたのだ。小さい頃から何度かやらかしていることだが、またやってしまったと自分に呆れている。自分が出てきた細い路地を覚えていないのだ。


PM5:00、シャワーを浴び、買い出しに。明日から2連泊でブッシュ・キャンプになる。「まともに昼食を取れるところがないので、水と食料を各自用意しておくように」と連絡が入った。大きなボトル水とヨーグルト。175Com


スマホを活用すると、自分の居所と目的地を、的確に表示してくれるアプリがあると聞いて、スコットにそのアプリの取り込みを頼んだ。このアプリは、一度取り込んでおけば、オフラインでも使えるという。若い人はこんな便利な物を使っているのだ。


PM7:00、ポメラ・タイム。

PM9:30、就寝。


8月16日(木)パミール・ハイウェイ(カラコル湖)


AM5:00、起床。ポメラ。

AM7:00、オシュを出発。トラック・バスが直って来たのだ。今日は、国境を越えてタジキスタンへ入る。4000を越える所を通っていくので、高山病の予防薬を飲む。昨晩に続き2回目だ。


AM8:15、修理から戻ってきたトラック・バスは、急勾配の坂道に差し掛かり、ゆっくりと喘ぎながら登っていく。山の斜面には、牛や、馬、羊達の放牧が見える。時には牛の集団が道路を歩いていたり、横切ったりしているので、その都度、トラック・バスは停車したり、減速したりしている。


国境の峠道@(キルギスタン)


国境の峠道A(キルギスタン)


国境の峠道B(キルギスタン)


AM11:00、トイレ休憩。高度計は3600mを指している。間もなく富士山頂と同じ高さになる。3人兄弟が寄ってきて、その中の13才になる長兄が、セブギと何やら話し始めた。どうやらトルコ語らしい。

国境の3人兄弟(キルギスタン)


少年は、トルコ語、キルギス語、ウズベク語、ロシア語の4カ国語を話すと言う。いずれも学校で習っていると涼しい顔をして言う。4カ国語の内、ロシア語を除く3つは、いずれもトルコ語系(ウラルアルタイ語族のチュルク語)であるから、方言を習得するぐらいの事なのかも知れない。


AM11:25、ランチタイム。食事ができるような店はない。周辺には小さな店が2軒あるだけで、何時仕入れたのか分からない、ほこりをかぶった品物が少しだけ置いてある。あまり売れている気配はない。私は、持参のヨーグルトと、非常食用に携帯していた、ビスケットで昼食を済ませた。


マークは、ソーセージとチーズを、パンに挟んで美味しそうに食べ、瓶詰めのピクルスまで用意していた。こう言う時に、普段の食生活の差が出るものだな、と感じる次第である。


AM12:10、出発。さて、行く手をさえぎる様に聳えている雪山を、このトラック・バスはどの様に越えて行くのであろうか?いつものように凸凹道を踊りながら、ゆっくりと進んでいる。

行く手をさえぎる雪山(キルギスタン)


PM1:30キルギスタンとタジキスタンとの国境に到着。標高は3300m。何を待っているのか分からないまま、時間だけが過ぎて行く。カラシニコフを肩から下げた2人の兵隊が、所在無げにうろついている。空は晴れているが風が強い。やがて、一人ずつ、一間四方の木造建築の中に呼ばれて、1人の男からパスポートをチェックされ、顔写真を撮られた。


私の時は「ヤポニ(日本人)、香川、本田、フットボール」とか言って、ご機嫌であった。順番を待っている間、路上にコンロを置いて、インスタントラーメンを作っている若者がいた。旅する青年の逞しさを感じた。


PM3:30、やっと、キルギスタン側の国境を通過。これからタジキスタン側の国境へ向かうのだが、その国境間の長いこと!狭い山道を何処までも行く。


タジキスタン側の国境へ向かう@(パミール・ハイウェイ)

 

タジキスタン側の国境へ向かうA(パミール・ハイウェイ)


PM4:45、タジキスタン側国境に到着。標高4200。タジキスタンでパミール・ハイウェイを通過する者は、タジキスタンのビザと同時に、「GBAO permit」と言う承認印が必要である。


これは、パミール・ハイウェイを走るには「ゴルノ・バダフシャン自治州」を通過するので、そこの許可を改めて取得すると言う、2重構造になっているのだ。旅行者から見れば、単なる税金の2重取りである。


同行者のジョアンナが、高山病で苦しんでいる。前日から、「高山病の予防には、予防薬のダイアモックス錠を飲んで、水を沢山飲むことが大事です」と、他人には語っていたくせに、自分では「バスで移動するだけで、歩くことはないから、服用しなくても大丈夫」と判断していたらしい。


顔色が青くなり、目が虚ろになって、呼吸が荒くなっている。夫のマークの膝に頭を乗せて横になっているが、見た目にも辛そうである。その時、キャメロンが、トラック・バスに備えられていたらしい携帯用の酸素ボンベを取り出し、ジョアンナに与えた。


彼女はそれを口元に持っていき、何度も深呼吸をしていた。やがて、酸素の効果があったらしく、元気を取り戻してきた。酸素ボンベが有って良かった。


私は、予防薬を昨日の夕食後から、2回服用した甲斐があって、今のところ高山病の症状はない。南米のペルーに行った時、私も高山病に悩まされた経験があるので、その辛さは知っている。頭痛、吐き気、食欲なしに陥ったのである。


PM6:40、やっと、タジキスタンへ入国。もうキャンプ場に入って、テントを張っていたい時刻であるが、国境での出入国の手続きに時間が掛かり、これからキャンプ場へ向かわねばならない。

タジキスタンに入国(パミール・ハイウェイ)


PM9:00、キャンプ場に到着。カラコル湖畔に来ているはずだが、辺りは真っ暗闇で何も見えない。ヘッドライトを点灯させて、テントを張る。こんな時の簡易テントは、手間が掛からず助かる。


PM10:00、夕食。マカロニ・チーズの上に、ソーセージと野菜サラダをトッピング。状況を考慮すれば、上々のお味でした。


食後は、直ぐに自分のテントへ入って寝る支度。高度4200のキャンプ場は、空気も薄いが、気温も低い。私は用意していった真冬の衣類を全部着込んで寝た。ラクダの下着、セーター、ウィンドブレーカー。お陰で、寒さに震えずに済んだ。


PM10:30、就寝。まだ食べた物が胃袋に入った直後なのに!


8月17日(金)パミール・ハイウェイ(ムルガブ)


AM4:30、起床。ポメラ。 
       


        
高度4200mのキャンプ場(タジキスタン・カラコル湖畔)

トラック・バスの下で寝るテリーさん(カラコル湖畔)


AM6:00、朝食。バナナ、シリアル、コーヒー。

朝食(カラコル湖畔)


AM7:00、出発。今日から2冊目のメモ帳に入る。3冊用意してきたから、十分間に合いそうだ。

AM7:20、写真撮影タイム。昨夜は何も見えなかったが、カラコル湖が眼前に広がっている。青空の下に白銀の山と青い湖が美しく輝いている。絶景は苦労して手にする物か?

カラコル湖(タジキスタン)


トラック・バスが走る左側に、気になる柵が続いている。動物が全く居ないので、放牧用の柵でも無く、人家もないので敷地を囲む柵でもない。キャメロンに「あの柵は何だろうかね?」と聞いてみると、「あれは中国との緩衝地帯を示す柵でしょう」と言う。


それにしても、よくもこんなに延々と続く柵を巡らしたものだ。何十キロメートル、否、何百キロメートル続くのであろう。こんな柵を巡らす方が、経済的にはもったいないと思うが、万里の長城を造ったことを考えれば、これ位何でもないか?

中国との緩衝地帯を示す柵(パミール高原)


自転車で走っている若者に出会う。トラック・バスに座っているだけでも楽ではないのに。中国の新疆では、シルコロードを歩いている連中に出くわしたが、青年の持つエネルギーに感心するばかりである。

パミール・ハイウェイ(1

パミール・ハイウェイ(2

パミール・ハイウェイ(3

AM9:40、トイレタイム。野ざらしの、強風の中で、方向を間違えて放尿すると、せっかく出した物が、自分の方に飛んで来る。風向きだけを考えるだけなら、それほど難しくはない。しかし、出来れば他人の目も避けたいし、着地した後に自分の方に流れてこないように、地面の傾斜角も考慮しなければならない。野ざらしで心地よく放尿する事は、以外と難しい。


「それにしてもこのトラック・バスは古そうだが、何時頃制作された物かね?」と私はマークに語りかけた。マークは「1970年製ですね。ですからかれこれ45年経過しています。サスペンションに問題があるので、クッションが悪すぎます」と言う。


やはりそうだったのか。それでいて、大して力もないし、道路状態が悪いとは言え、スピードが遅すぎる。早足で歩いているようなスピードである。後から走ってくる普通車にどんどん抜かされる。彼らは、時速50Km位で走り抜けていく。この道(キルギスのオシュからタジキスタンのドゥシャンベまで)をパミール・ハイウェイと言う。


パミール・ハイウェイ(4


パミール・ハイウェイ(5


先進国で生活している我々には、「冗談がきついよね」と言いたくなるハイウェイだが、それが発展途上国の現実なのだ。ODAも、こう言うところに援助してインフラの整備を助けたら良かろうと思うが、状況はそんなに簡単ではないようだ。国交の問題、国境線が安定しない実状、国内問題等を抱えて居るからだ。


AM11:00、消えかけた文字で、「アク・バイタル峠、標高4655」と表示された立て看板の所で記念の撮影。両側を高い山に挟まれたパミール・ハイウェイを、半日も走り続けていると、「もう良いよ、分かりましたから」と言いたくなってくる。

アク・バイタル峠、標高4655m(パミール・ハイウェイ)


AM12:30、トイレタイム。

PM1:10、ランチタイム。昨夜の残り物を皆で分け合って食べる。近くにホテルがあり、そこでタジキスタン・マネーに両替する。US$20=184タジキスタン・ソモニ。キルギスタン・マネー740Com=76ソモニ。


ガイドブックでは、1ソモニ=20円位になっているが、現在は、円が強くなっているようで、1ソムニ=15円位になっている。


PM2:00、出発。雪のない、しかし険しい山が両側から迫っている。トラック・バスは何処までもゆっくり進んでいく。景色に感動しなくなった小生には、時速50Km位で走ってくれないかなと思う。現実の時速は、20Km位であろう。


PM3:30、少し冷えてきたので、長袖を1枚羽織る。3時頃が気温のピークで、それを過ぎると今度は急速に気温が下降していく。真冬から真夏まで、1日の間に4季が巡る。従って、衣服の脱着は頻繁に行っている。


PM5:00ムルガブ(タジキスタンの中央東部、ゴルノ・バダフシャン自治州にあるパミール高原の小さな村。人口:4,000人)を過ぎた辺りのキャンプ場に到着。標高4000m、風が強い。此処に宿泊用のユルトが1軒だけ有る。当然、全員は泊まれない。泊まりたい人は、オプション料金、150ソモニ(約2300円)を支払って泊まる。それも先着順である。


私は、料金が高額である事と、今夜の強風とを天秤に掛けて決めかねていたが、体を労ることを優先し、ユルトに宿泊することに決めた。リーダーのニンカにその事を伝え、150ソモニを支払った。


私がユルトに入っていくと、既に粗方宿泊客は決まっている様子であった。71歳のジョン夫妻、70歳のロバートとテリー。それに、ドライバーのジョノとリーダーのニンカ。私が加わると丁度定員の7人になる。


私が自分の布団を敷こうとしていると、ジョノが「それは、2人用の布団だから、1人用の布団を敷きなさい」と言う。それはもっともな話なので、1人用の布団を探したが、見あたらない。


そうこうしていると、マーク夫妻が入ってきて、私が敷いた布団に座り「これは、二人用だから私たちが使います」と言って陣取っている。私は、7人が定員と聞いていたが変わったのかな、と思いながらも、一人用の布団を探すことに夢中である。


そこに、此処の娘さんが入ってきたので「1人用の布団を下さい」と頼むと、何処からかそれを抱えてきた。しかし、既に8人分の布団が敷いてあるので、9人目の私の布団を敷く場所がない。私はユルトの片隅にやっとの事で1人用の空間を作りだし、そこに布団を敷いた。


疲弊していた私がそこで横たわっていると、ニンカが入ってきて「ジョアンナは此処に泊まるとは言っていないでしょ!」と始まった。ジョアンナは「私たちは最初に申し込みました」と言う。よくある、「言った、聞いてない」の応酬である。


若い頃はオードリー・ヘップバーンを凌ぐような美貌の持ち主も、さすがにこの年齢になると地球の引力には勝てず、あちこちに弛みが出てきたヒステリー女と、運転手のジョノと怪しい関係で、男の2人や3人、何時でも掛かってこい、と言う雰囲気のヤサグレ女の勝負や如何に?


私は、寝た振りをして目を閉じて成り行きを聞いていた。勝負は数分後についた。ヒステリー女が大声でわめき、泣きながらユルトを出ていったのである。


夫のマークは懸命にジョアンナを呼んでいる。夫としては声をかけないわけには行かない。妻は、金切り声をあげて言いたいことを言った後、泣いてしまえばそれで終わりだが、夫の役目はその妻を慰めねばならない。いつも難しい役回りが待っているのだ。


映画のワンシーンなら初めから台詞も決まっているが、現実はそうは行かない。それが夫の役割の難しさである。映画ならハラハラドキドキ迫力に満ちて、楽しかろうが、此処は現実である。出ていった妻は、まもなく戻ってきて横になり、興奮して高山病が再発したのか、酸素ボンベを加えていた。


しばらく前(89日、PM7:00)にも、この二人は、白熱した議論を展開していたが、余程ウマが合わないのであろうか。この先の旅程でも、第3幕が見られるかも知れない。夫のマークには、妻を慰撫するのに相当の知恵とエネルギーを求められよう。この二人は結局、ユルトの中で寝ていたので、私の寝る場所は、寝返りの打てない山小屋並であった。


PM7:30、夕食。メニューは、ベジタブルスープとポテト。時間を掛けて造っていた割には、全体に硬く、特にポテトが生煮えのようであった。これは標高4000mと言う、高地での料理、特有の事であろうとも考えられる。気圧が低く100℃に達しないで沸騰するからである。


先ほどの、ジョアンナは食事の場所には現れず、マークが二人分の食事をプレートに盛りつけて、ユルトの中へ運んでいた。マーク、ご苦労さん!!マークのため息がだんだん大きくなってきた。


PM8:30、就寝。


8月18日(土)パミール・ハイウェイ(ホログ)


AM5:00、起床。ポメラ。朝食前の一時、ドライバーのジョノと懇談。「このツアーに参加するまで、パミール・ハイウェイのイメージが掴めなかったんだよ。ハイウェイと言えば、高速道路だし、山の中を高速道路が走っていて、絶景を見ながらのドライブが楽しめるのかな、と思っていたのだが。


現実は、一歩間違えれば、谷底に転落しそうな凸凹道を、ゆっくりゆっくり、歩くような早さで運転していく。それも、5泊6日と言う長時間掛けて。此処で言うハイウェイとはどういう意味なのかね?」と私が言うと、


ジョノは「普通の高速道路なら、パーキングにマクドナルドがあるんだけどね!」と言って笑っている。そして「パミール・ハイウェイは、キルギスタンのオシュから、タジキスタンのドゥシャンベまでを言い、これが唯一の幹線道路と言う意味ではないだろうか」と。


私は納得出来るような、出来ないような心境であった。自分なりに理屈を付けてみると、同じハイウェイでも、ハイスピード(高速度)・ウェイではなく、ハイアルティチュード(高高度)・ウェイなら納得できる。現実に、標高4000mを越える山道を3日間も走るのだから。


「アフガニスタンに隣接して走るこの道路では、7月末にもIS(イスラム国)と言うテロ集団による襲撃事件が起きている」と、リーダーのニンカが話しに加わってきた。安心して景色を堪能できるような心境ではなくなってくる。


AM7:00、朝食。メニューは、ライス・プディング、パン、茶。ユルトの中での朝食は、母親と12歳の娘とで準備している。まず、絨毯の上にビニールを敷き、その上に丸くて硬くて大きなパンを置いていく。4人で1個ずつの割合だ。


その後、ライス・プディングを18人分よそってくれた。口に入れてみると、微かに甘みがあり、水分の少ないお粥の様である。味が薄かったら砂糖を入れて下さいと言う。あまり口に合わず、半分食べるのが精一杯であった。


ユルトの少女(ムルガブ)


AM8:10、出発。リス科の小さな「マーモット」が車窓から時々目に入る。とても愛らしい仕草なのだが、持参のカメラでは綺麗に撮影することは困難である。若い人達は撮影機材だけでも、リュックの半分を占めるような、力の入れようだ。彼らが撮った映像は芸術的と言えるほど見事である。


AM9:30、トイレ休憩。この辺では青い湖が現れたかと思うと、暫くすると白い湖が現れたりする。白いのは塩であろうか。自転車やバイクで走っている人もいた。


白い湖(パミール・ハイウェイ)

自転車で走る人(パミール・ハイウェイ)


バイクで走る人(パミール・ハイウェイ)


AM11:00、トイレ休憩。

AM12:30、カメラ・ストップ。此処は丁度4カ国と国境を接するところである。トラック・バスの後方、東側は中国。右側、北方はタジキスタン。左手、南側はパキスタン。前方、西側はアフガニスタンである。国境紛争の歴史が頭をかすめる場所でもある。

4カ国が国境を接するところ(パミール・ハイウェイ)


AM12:40、ランチタイム。近所の人が3人ほど立ち話をしていたので、そちらへ行き、食事の出来るお店がないか聞いてみる。「食事は出来ないが、お店なら1軒ある」と言って、その店を指さす。「でも、あの店は閉まっているよ」と私が言うと「私が行って開けるから」と言う。


私はそのおばさんについて行き、お店の中を覗くと、ランチの代わりになるような物はなかったので、何も買わなかった。運転手のジョノが来て、冷蔵庫から大きなソーセージを取り出し、5cmほど切り売りして貰っていた。


私は持参のカップラーメンに、昨夜の残り物のベジタブルスープを乗せて食べた。大きなヤカンにお湯を沸かしたのだが、なかなか沸騰せず、カップラーメンを食べ終わったら1時間経過していた。標高3500の高地だと、お湯の沸き方も遅くなるのかしら?

車窓から@(パミール・ハイウェイ)


車窓からA(パミール・ハイウェイ)


PM1:40、出発。トラック・バスのドアが壊れて開かないので、後ろの非常口から乗り降りすることに。本当に、何処まで古い車なのか!


PM4:00、午後3時頃が、一日の中で最も暑くなる時刻であり、何もかも脱ぎ捨てて夏の装いになる。しかし、午後4時になると急に冷えてきて、再び脱いだ物を着込むことになる。此処では、深夜の真冬の服装から、昼間の真夏の服装まで、目まぐるしく、変化を求められる。1日の中に四季が巡ってくるのだ。


車窓からB(パミール・ハイウェイ)


PM6:00ホログのホステル「パミール・ロッジ」に到着。此処は、パミール・ハイウェイでは唯一の有名なユースホステルで、旅行ガイドブックの地図上にも載っている。大きく快適なホステルであるが、大型のトラック・バスの乗り付けが出来ず、荷物を抱えて坂道を、10分ほど登ってこなければならない事が難点である。


夕食に出かけるも、適当なレストランが見つからず、スーパーに寄って買い込み、夕食にする。パン、ソーセージ、アイスクリーム。17ソムニ。


PM7:00、夕食。シャワー。期待通りのお湯が出てきました。ポメラ。

PM8:30、就寝。大広間に布団を敷いて雑魚寝。この方が私には寝やすい。


8月19日(日)パミール・ハイウェイ(パンジ)


AM5:00、起床。ポメラ。

AM7:15、朝食。豪華!パン、クッキー、ジャム、バター、目玉焼き、2個、ソーセージ、緑茶。朝食に、こんなに沢山出てきたホステルは、過去になかった。パンは食べきれなくて、昼食用に貰ってきた。最近、日本人男性が、ここに10日間ほど居たと言うが、さもありなんと思う。非常に居心地の良いホステルである。


トラック・バスの置いてある所まで、10分ほど歩きながら、ジョン(71歳)から聞いた話だと、スザンナとは結婚していない。共にバツイチ同士で、ただの友達であると言う。そうは言っても、共にジョンの家で暮らしているようだし、そういう関係になったのは2年前であると言う。


スザンナが2年前までファーミング(農牧畜)をやっていたと言う話と一致してくる。スザンナが何時もニコニコしているのは、そう言う背景があったのかと合点した次第。


AM12:30、ホログのパミール・ロッジを出発。今日はアフガニスタンとの国境の川沿いを走る。川(バルタング川)向こうはアフガニスタンである。


対岸はアフガニスタン@(パミール・ハイウェイ)


対岸はアフガニスタンA(パミール・ハイウェイ)


川で遊ぶアフガン少年B(パミール・ハイウェイ)


対岸はアフガニスタンC(パミール・ハイウェイ)


PM3:00タイヤの交換!!故障ではないが、此処で今やることですか?何かこちらの旅程には無いことが多すぎる。


タイヤの交換!!(パミール・ハイウェイ)


この間に、ロバート(70歳)と懇談。家族のことを聞くと、「離婚した妻との間に2人の子供がおり、共にアメリカで暮らしている。自分は、タイのチェンマイで2度目の妻(40歳)、その子供、孫、犬達と幸せに暮らしている。


一緒に来ているテリーはイギリス人だが、やはりタイ人の妻(43歳)と、仲良くやっている」と話してくれた。共に年の差婚を満喫しているようだ。


PM4:30、出発。所々で稲の脱穀が行われている。我々は、川の流れに沿って、下流に向かっているから、標高は徐々に下がっている。

標高は徐々に下がって(パミール・ハイウェイ)


PM8:00、今夜のキャンプ場に到着。標高は2000まで下がって来た。此処まで降りると、標高に伴う高山病や、気温の点で大分楽である。キャンプ場には、なにがしかの謝礼をするところも有るようだが、此処の主人は「庭にテントを張るのも良し、家の中にマットと寝袋を敷いて寝るのも良し」と言ってくれているそうだ。そう言われて庭にテントを張るという人は居なかった。


地元の女子学生達が夏休みで帰省していたらしく、我々の周りに集まってきた。私が「川の名前は?」と聞くと、「パンジ」と答え「村の名前は?」と聞くと「サナバード」と答えてくれた。


バンジとはどういう意味ですか?と聞くと「川という意味だ」と言う。何だか禅問答の様相を呈してきたが、実はこういう事は他の例でもあるのだ。例えば、日本では「サハラ砂漠」と言うが、現地の人は「サハラ」としか言わない。サハラとは、砂漠と言う意味である。


もう一つ、ナイル川がそうだ。現地の人は「ニール」としか言わない。ニールとは、川という意味である。だから、バンジと言えば、この川のことを指し、他の川ではないと言うことであろうと私は理解した。


「学校での語学は何語を習っているの?」と聞くと「タジキスタン語、ロシア語、英語です」と言う。この国でもやはり、英語の比重が増しているようだ。


PM9:00、夕食。サンドウィッチ。食パンをフライパンで硬く焼き、それに様々な物を挟んで食べる。食パンをフライパンで焼いて硬くすることは、自分の家庭ではしていないので、食べにくいと思った。しかし、欧米ではそれが普通の食べ方のようだ。手間を掛けて食べにくくする?


PM10:45、就寝。板の間に、マットレスと寝袋を置いて寝た。シャワー、トイレは無し。これでも、テントの中より余程快適である。家のすぐ近くを流れるバンジは、鉄道が走っているような、「ゴーゴー」と言う音を立てて流れている。


8月20日(月)パミール・ハイウェイ(パンジ)


AM4:50、起床。オーナーのばあさんに、顔を洗う仕草をすると、水を酌んでくれた。ポメラ。

AM5:30、朝食。パン、ゆで卵、小さな木の実の砂糖煮(ジャムのつもりか?)キャンデー、クッキー。これがタジキスタン流の朝食か?真心はこもっているのだが、口に出来る物が少ない。お茶が美味しかったので、お代わりをして飲んだ。 


AM6:10、出発。此処を通過していると、イヤでも地球の歴史、営みへと思考が向かっていく。人間が何億年掛かっても造り得ない造形物が、目の前を次々と通り過ぎていく。NHKの「ブラタモリ」の断層も、勉強になるが、此処の圧倒的な迫力に満ちた造形物を目にすると、日本の断層物語は箱庭のままごと遊びのようになってしまう。

圧倒的な景色@(パミール・ハイウェイ)


圧倒的な景色A(パミール・ハイウェイ)


圧倒的な景色B(パミール・ハイウェイ)


AM8:00、トイレ休憩。川の対岸、つまり、アフガニスタン側にも、辛うじて一本の道路が、切り立った崖に見え隠れしているが、人の姿は滅多にない。今朝のこれまでの2時間で、バイクが1台、荷担ぎ人の歩いている姿が、数人目撃されただけである。

対岸にも道路が(パミール・ハイウェイ)


こちら、タジキスタン側の道路(パミール・ハイウェイ)も、決して余裕のある道ではない。つまり、右側からせり出した岩に接触しないように、そして左側を流れているパンジ川に、落下しないように走らなければならない。大勢の客を乗せて走る、大型トラック・バスの運転手、ジョノの神経や如何に?

自転車で(パミール・ハイウェイ)


右側からせり出した岩(パミール・ハイウェイ)


AM10:30、給水。トラック・バスのタンクに、キャンプ時に使う水を給水していく。このタンクには、600リットルの水が入るそうだ。此処の給油所(標高1600m)では、谷川の豊かな水を、ホースを使って給水してくれる。料金はいらないと言っているようだが、ニンカは、幾ばくかの謝礼を渡していた。 

トラック・バスのタンクに給水


AM12:00、対岸にも小さな畑が見えてきた。対岸を見ていると、我々の後方に、一人の女性らしい人が歩いたり、立ち止まったりしていた。よく見ると、前方数十メートルの所にバイクを押している男の姿があった。


二人の間は道路が少し盛り上がっており、彼女を乗せては走れない部分であるらしい。やがて女性が追いつき、バイクの後ろに乗った。見ていると、向こうの道も凸凹が激しいようで、大きなバンピングを繰り返している。


バイクだから直ぐに我々のトラック・バスを追い抜いていくと思っていたが、なかなか距離が縮まらない。単車の一人乗りならスピードも出せようが、後ろに彼女を乗せて、スピードを出すわけには行かない。彼女を振り落としてしまったり、谷底に転落したりする恐れがあるからである。

後ろに彼女を乗せて(アフガニスタン側の道路)


それでも徐々に我々との距離は縮まり、やがて我々を追い抜いて行った。アフガンでの、命がけの恋を垣間見た思いである。どんなに危険な悪路でも、二人の恋を妨げることは、出来ないのである。


AM12:30、昼食。たまたま停車した所の、茶店を思わせる店で食事を取った。そこの店では、スープが作れるというので、私はその店で昼食を取ることに決めた。躊躇していた他のメンバーもやがて集まってきて、思い思いの物を注文しだした。


小さな茶店なので、注文を取る親父と、料理を作る女房はてんてこ舞いである。私のスープが運ばれてくると、皆の注目が集中した。マークが「味の方はどうですか?」と聞いてきたので、「グッドと悪くない(ノット・バッド)の間です」と言うと、「良く分かりました」と言って笑った。


店の親父は、「自分の畑で採れたものです」と言って、トマト、キュウリ、タマネギを酢で和えたサラダを皆にサービスしたり、乾燥アプリコットや、桃のジュースをサービスしてくれたりした。


私は、自分が注文した物よりも、サービス品の方により高い評価を与えたい気持ちであった。支払いは、ニンカの采配で一律均等割りとなり、チップを含めて一人当たり、20ソムニとなった。思いがけず楽しい昼食会であった。

 

PM1:30、トイレ休憩。コーラとアイスクリーム。8ソムニ。

PM3:10、トイレ休憩。放尿を済ませてトラック・バスに戻ったその時、ニキータのお尻が目に飛び込んできた!なんと彼女はバスから至近距離の岩陰で用を足していたのだ。岩と言っても、しゃがめばお尻が隠れるくらいの大きさでしかない。


そこで彼女は立ち上がり、まさに小さく、黒色のパンティーを引き上げようとしている瞬間であった。そのお尻は、牛のそれを思わせるような、真っ白で、見事な肉付きであった。私は、思わず自分の心とは逆に、目を背けたので、それは一瞬の出来事であった。


10分の1秒か、100分の1秒でしかなかったと思う。彼女の水着姿さえお目に掛かったことがないのに、いきなりその物が目に飛び込んできて、私は動揺していた。見てはいけない物を見てしまった。と言う悔悟の思いと、すばらしい物を見せてもらった、と言う喜びの思いとの間で。


私は私がそれを見たわけではなく、向こうから飛び込んできたのである。これは私にとっては一種の事故であり、罪にはなるまい。仏教には「無上宝寿・不求自得」と言う金言がある。即ち、「最高の宝物を、こちらから求めていないのに、手に入ってくる」と言う、有り難いお言葉である。今回のことは、こう言うことにしておきたい。


しかし、一方で、イスラム教ではどのように判断されるのであろうか?「例えハプニングであっても、女性のお尻を見たその目は、つぶれ、やがて腐ってしまうであろう」等と告げられるのかしら?


私は仏教徒で良かった。あの一瞬のために、これからの人生を、恐れおののきながら過ごす必要はなさそうだから。それにしても、バスから5mも離れていない至近距離で、大胆な女性だ!パミール・ハイウェイでの貴重な貴重なエピソードでした。


トラック・バスは国境の川沿いを、川の流れのように、下流に向かって走っている。道路のアップ・ダウンは有っても、標高は徐々に下がっている訳だ。


PM5:30、久しぶりに町中でトイレ休憩。英語では「ピー・ストップ」と言っている。「ピー」は何の略語かと聞いてみると、「これは略語ではなく、幼児の時から用を足すときに言っている言葉である」と言う。日本でなら「シー」に相当する言葉であろうか。日本語の「シー」は、大人には使わないが、英語圏では、そのまま使い続けていると言うことか。


店でキュウリのピクルスを購入、15.5ソムニ。太いキュウリが56本、瓶詰めになったもので、強めの酢漬けは、すこぶる美味しかった。疲れた体は酢の物を待っていたようだ。キャメロンとセブギにも分けてあげた。ヨーグルト、8ソムニ。

久しぶりの町歩き(タジキスタン)


PM8:00、キャンプ場着。道路脇の空き地で、どこであるか地名は分からない。まずテントの設営に掛かる。風が強いのでなかなかカバーが定まらない。何とかカバーを付けて、ペグの取り付けに掛かると、今度は地面がコンクリートのように固くて、ペグが入らず曲がってしまう。


やむを得ず、テントにペグを取り付けないまま、トラック・バスに置いてある自分の荷物を取りに行った。テントに戻ってくると、設営したところにテントがない!夜も更けてきて周りは殆ど見えない。遠くに目をやると、テントらしい物が見える。


まさかあんなに遠くに?と思いながらも寄って行くと間違いなく私のテントであった。荷物を取りに行った僅かな時間に、50m程も強風に飛ばされていたのだ。今夜は、荷物を重石にしてテントを固定するしかない。


PM9:00、夕食。今夜の料理はフランス料理だと言う。いくつかの野菜を卵綴じにして、スパイスで味付け。それにソーセージとサラダをトッピング。まずまずのお味でした。食後にスイカのデザート。今日のスイカは古くて美味しくなかった。


PM10:30、就寝。


8月21日(火)ドゥシャンベ


AM4:30、起床。昨夜は暖かく、寝袋に入ったのは明け方になってからであった。風も収まっていて、ペグをしないで寝ても、飛ばされないで済んだ。


AM5:00、朝食。バナナ、スイカ、ブドウ、コーヒー。パンまでは欲しくない。


夜明け(パミール・ハイウェイ)

朝食(パミール・ハイウェイ)


AM6:00、出発。日没後のキャンプ場入りと、早朝の出発とで、ポメラは1行も打てなかった。今走っている道路もパミール・ハイウェイだが、道路が整備されていて、今まででは最もバンピングが少ない。この状態が、この先ずっと続いてくれると良いのだが。

珍しくバンピングが少ない(パミール・ハイウェイ)


パンジ川の前で(パミール・ハイウェイ)


AM8:30、トイレ休憩。

スコットとアビーの間が急速に縮まってきている。8月4日の合流からまだ3週間も経っていないが、バスの中での二人は隣同士で座り、アビーの両足はスコットの膝の上である事が、後ろの席から見える。アビーの足は、スコットの膝の上で嬉しそうに踊り、足を乗せられているスコットも、満更でもなさそうである。私は指を加えてじっと見ている。


アビーの両足はスコットの膝の上


AM9:00、シャッター・チャンスと言うことで、バスがストップ。ここのパンジ川には、アフガニスタンへの国境の橋が架けられている。橋の両側には当然、検問所が設置されているのであろうが。

国境の橋(タジキスタン〜アフガニスタン)

「アフガニスタンへ」の標識

AM10:20、ビザとパスポートのチェック。タジキスタンに入って初めての検問である。車内で待機していると、バスの近くに成っているリンゴを、ちぎって放り投げてくる男性がいる。こちらが喜んで受け取ると、更に投げてくる。

タジキスタンに入って初めての検問


私は7個も受け取った。微かに渋く、ほんのり甘いこちらの、青くて小さなリンゴは、美味しいとは言えず、1個も食べれば十分である。残りは他の人に分けてあげた。


AM10:45、出発。舗装されてバンピングの少ない道路もここまでで終わり、また凸凹道が始まった。パミール・ハイウェイで目に付くのは、中国の大型トレーラーである。習近平書記長の唱える「1帯1路」が此処に現れているのであろうか。


AM12:30、鉄道レールが見えて来た。しかしこの日は、一度も列車には出会わなかった。畑も見えてきた。町が近くなってきたようだ。


国家元首・ラフモン大統領の等身大、或いは、それより大きな肖像画が、至る所に飾ってある。これは、二院制と言いながら、実質的には独裁国家であることを宣言しているようなものである。


女性の姿もあちらこちらに見られるようになってきた。平均的な服装は、くるぶしまでのレギンスに、それと同じ色、柄のワンピース。丈の長さは色々だが、概して若い人は短く、年輩の人は長い。色柄も、若い人は明るく、年輩者のそれは、地味である。

女性の服装@(タジキスタン・ドゥシャンベ)


女性の服装A(タジキスタン・ドゥシャンベ)


頭のヒジャブは、被ったり被らなかったり。お洒落な人は、ヒジャブもレギンスに合わせており、更にお洒落な女性は、靴まで色、柄を揃えている。見ているだけで楽しくなる。


それに対して男性の服装は、概して地味である。日本のサラリーマンのように、スーツ姿も見られるが、数は少ない。黒い帽子を頭に乗せている人も見受けられる。思い思いの服装で出かけているようだ。

祝日の少年たち(タジキスタン・ドゥシャンベ)


PM1:30、ランチタイム。久々に町中のレストランで食事が出来るかと、期待したのも束の間。今日はイスラム教の祝日(犠牲祭)で、レストランは閉店。持参の物をバスの中で食べることになった。私は、非常食用の、パン、ソーセージ、ヨーグルト。

PM4:30、トラック・バスは、急に3車線に入ってきた。いよいよタジキスタンの首都・ドゥシャンベに来たようだ。5泊6日の過酷なパミール・ハイウェイが終わりを迎える。もう二度と来ないことを考えると、少し寂しい気もする。


PM5:30グリーンハウス・ホステルに到着。部屋は12人用のドームである。

PM6:30、3日ぶりのシャワー・タイム。熱い湯が出ることは嬉しいが、温度が一定せず、急に上昇したり、下降したりするので、扱いにくい。


PM7:30、セブギ、ミシェルと3人で、夕食へ。シェラトンホテルに寄って両替。US$40が、375ソムニに成った。そのままシェラトンホテルで夕食。サンドウィッチ、スープ、ファンタ、お茶。120ソムニ。サンドウィッチとスープを一緒に出して欲しかったが、そうは成らず、値段の割には中途半端な食事に成ってしまった。


PM9:00、帰着。

PM9:30、就寝。


8月22日(水)ドゥシャンベ


AM3:00、起床。ポメラ。キャンプで打てなかった分の日記が、溜まってしまった。

AM7:30、朝食。ホステルが用意してくれる、オムレツとパン。


AM9:30、一人旅中の日本人女性に遭遇。話を伺うと「会社を辞めて出てきた。樋口さん29歳。横浜在住。今しかできないことをやっておきたい」と。そして、我々が2泊3日を掛けて走ってきたパミール・ハイウェイのホログからドゥシャンベ迄の道を、1日(16時間)で走ってきたと言う。我々のトラック・バスが如何に遅いかの例証だ。


AM10:30、ポメラ。

AM12:30、買い出し。ピクルス、ソーセージ、ヨーグルト。33ソムニ。


PM1:30、洗濯。

体調を崩している人が多い。セブギ、アンドレア、スーザン、ミシェルが腹痛。何か共通の食あたりでもしたのだろうか?


テリーは、次に訪問するウズベキスタンのビザを取得していなかったようで、急遽大使館に申請に行った。しかし、許可が下りるのは、来週の月曜日になると言われたらしい。我々と一緒の入国は出来ないと言う。


PM2:30、昼食。味噌ラーメン、ソーセージ、ピクルス、ヨーグルト。ユースホステルの清掃担当のおばさんの機嫌が悪い。厨房に、食べた後の食器類が洗わずに置き去りにされているからだ。その場に居合わせただけの、私を睨まれても困るのだが。


見ていると、このおばさんは、常に文句や愚痴をこぼしながら、仕事をやっている。大変なことは分かるけど、そういう姿は目にしたくないものである。その点、ビシュケクのおばさんは、淡々と仕事をこなしており、見ていても気持ちが良かった。


PM4:00、珍しく本日2人目の日本人と遭遇、今度は男子。彼は筑波大学・農学部の学生で、河津君と言う。1年間休学して旅行中だ。もう4ヶ月間走っているそうだが、移動手段は自転車である。旅行費用は、沖縄・石垣島の、サトウキビ畑で働いて貯めたと言う。滅多にない機会なので、夕食に樋口さんと川津君を誘うことにした。


PM5:00、ポメラ。

PM8:00、3人で夕食。串焼き、サラダ、スープ、パン、スイカ、メロン。110ソムニ。羊の串焼きが美味しかった。


二人が口を揃えたのは「3.11東日本大震災で、人生観が変わりました」と言う。「人生、明日はどうなるか分からない。今、やれる時に、やりたいことをやっておきたい」と。若者の中には、躊躇していた結婚を決断したと言う者も居た。


やはり、3.11は、表面からは伺い知れないが、若い人の人生観を変えるだけのインパクトが有ったし、大きな傷跡を残している事が分かる。


河津君は、香港から出発して、カンボジア、ラオス、インド、パキスタン、中国、タジキスタンと回ってきて、これからウズベキスタンに入り、カスピ海で終わりにすると言う。


私が「一人なら何処でも野宿出来るでしょう?」と聞くと、以外にも、「襲われたりしないように、人目に付かない所を探しますので、以外と大変です。わざわざ山奥へ行くこともあります」と言っていた。


樋口さんは「ポリスが平気で賄賂を要求してきます。乗り合いタクシーの運転手も心得ていて、それなりの額を準備しています。ホログからドゥシャンベに来るときは、何度も要求されたので、私たちが払った運賃がなくなってしまうのではないかと心配したほどです」と話してくれた。


忌憚のない意見交換が出来て、有意義な食事会が出来た。


PM10:00、就寝。


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